理屈を教える。ひとつひとつ教える。

大人から“ゆとり”と称される今の若者諸君は世の中の便利さ反比例して「事を体験する機会」が圧倒的に減っています。象徴されるものが携帯電話とコンビニエンスストア。

 

まず携帯電話は老若男女関わらず生活とは切っても切れないものになっていますが、人生の途中でこれが登場した世代と、生まれた時から当たり前のようにある世代とは存在意義そのものが違うと感じます。お客様のところでもよく話しますが、昔(携帯電話登場以前)は、本当の意味での待ち合わせなるものが存在していました。

 

下校途中で友達と別れるとき、「じゃあ正門前に4時な!」。帰宅するとそそくさと着替え、「宿題は後でする!」などと親に宣言して足早に正門前に向かい、集合時間の5分前くらいには到着するような習慣が訓練されたものです。遅れようものなら友達に放っていかれてその後の連絡もしようがないからそこにはある意味緊張感もあります。

 

しかしながら、今であれば「ごめん、ちょっと遅れるから先に行っておいて。どこ行くかだけ教えて。」のような感じで“遅れる事前提”のような感じになります。携帯電話ありきなので、前述の“早く集合する訓練”は便利さによって習慣づけする機会を失います。結果論からすれば「連絡しているんだから誰にも迷惑かかっていないでしょ」というのがこの世代の言い分で、それに対しては反論の余地はありません。しかしながら、いざ社会に出たときには「遅れます!」の電話で容認されない場合も多くあります。例えば早朝の会議。例えば客先の商談アポ。例えば取引先や上司など目上の人との約束。そのくらいの区別はつくと言われそうですが、社会に出るまでに訓練がされていないため、いきなり本番での行動が問われることになり、多々失敗するわけです。なぜか?彼らは時間に対する軸が携帯電話以前と少し違うからです。もちろん全員ではありません。しかし感覚にずれが生じていることが見受けられます。

 

そこでそれ以前の世代は「なってない!」「レベルが低い!」と嘆くのではなく、「なんでそうなるのか?」の理屈を肚オチさせる必要があります。面倒くさいです。しかし、これこそがそれ以前世代が変化対応すべき新しい思考・行動様式といえるでしょう。面倒くさくて大変なことを尽くして初めて“こいつのレベル”を判定しなくてはなりません。

 

私も新卒採用などに関わり多くの若者を面接・研修しますが、情報が溢れかえっているので何事もよく知っています。頭もよい人が多い。しかし、情報取得にリテラシーが求められるのと同様、蓄積したものをどう使用していけばよいかがわからない人も多いし、肝心のパーツをどこかに置き忘れている人もいるのです。中にはどこまで権利を主張すればよいかの加減がわからず周囲を辟易とさせる人もいます。受入する世代は、自身がもっているモノサシをちょっと脇に置いて、目の前の人のモノサシは如何なるもの?と考えて適宜説明していくことがすべての効率・精度を上げるために必要なのではないかと思います。若者といえども譲歩してもらっているな・・や、自分に対して一所懸命やってくれているな・・というものは感じるものです。

 

こうして仲間として受け入れることからスタートしないと組織づくりは成功しません。変化対応力が問われているのは、実のところ受け入れる側なのです。