こんな私も作業を進めるときにはお気に入り音楽を聴きながら気持ちを盛り上げていきます。音楽に興味を持ち出したのは中学1年頃、入り口はFM大阪だったと思います。徳島在住でなかなか電波が入らず、部屋にトランジスタラジオかざしながらウロウロしたような。

 

当時はウォークマンという発明品が若者文化を席巻していて、いいなあと思いながらも手に入れる予算もなく、やっと買ってもらえた横長のラジカセが音楽を受信する唯一の手段でした。そのあと、我が家に一生一度のバブルが来て、ミニコンポを買ってもらったのが中二の最後。キングスロード(レンタル店)にせっせと行ってはレコードを借り、聴いていました。ジャケットを眺めて、ライナーノーツを読んで、1枚のレコードの端から端まで味わっていたように思います。

 

高校に上がる頃には、コンパクトディスクというものが発明されて、プレーヤーが20万位したと記憶します。これをなんでも買ってもらっていたミーコ(男性)が購入し、わざわざ聴かせてもらいに家に行ったものです。私が虹色のディスクを再生する機械を手に入れるのはもっともっと後で、20歳の頃、大学中退するというからもういらんという友人から譲り受けた接触の悪いCDラジカセでした。ただレコードと違い、味気ないプラスチックケース(シングルは縦長の紙ジャケ)になり、レコードの醍醐味が無くなったなと強く思いました。壁に飾れませんし。

 

社会人になると割といろいろなものが買えるようになり、カセットテープの時代が終わりを告げ、ミニディスクというものが発明されました。CD3分の1の大きさのディスクに70分以上録音も出来、ノイズもなし。凄い!と思い飛びつき「ジギースターダスト」を買いました。CDの時に思ったジャケットの存在感はもうまったく無いに等しいものでした。

 

そしてパソコンが一気に流通し、音楽はデジタル配信さえるものになりました。ジャケットどころかディスクそのものが無い時代が来るなどとは中学時代の自分には考えもよらなかったこと。好きな音楽はいつでもどこでも手に入るものになりました。便利といえばこれ以上のことはないくらい便利。

 

 

 

テレビにラジカセ近づけて家族に「シーッ」という必要もない。アナログなノイズを軽減するためにシュワーっと静電気防止スプレー吹いて、クリーナーで円を描くようにレコードを拭き、針を落とした時に「ボンッ」という音に緊張しなくてもいい。MDの曲順を変えるために複雑な操作方法に悩む必要もない。延々と沖浜まで自転車漕いでお店に行かなくてもいい。ひと手間はどんどん無くなっていく。でもひと手間には小さなドラマがあったような気がする。大げさに言うと文化の消失かもしれません。

 

 

 

また、音楽を聴くためのものを軸に事業展開してきたところは、ハード屋さんもソフト屋さんもすべて変化を余儀なくされたはず。各種プレーヤー、針、ディスク、取り扱いショップ、レンタル屋さん。中学生の私以上にたった30年でこんなに変化するなんて夢にも思わない。当たり前は当たり前でなくなる。それは努力している人の努力加減が半端ないからだと思う。でも私のような凡人も、いつまでもそれは当たり前にある、などと安穏としていると、ある朝起きたら、昨日まであった扉も壁になっているかもしれない。誰にも起こりうる現実だと思う。

 

 

 

絶対だと盲信して、何かに依存していることに安定や安心を求めても、それは不確かなもの。確かなものは自分の中にある。自分に負荷をかけて、時に理不尽と戦い、激変する世の中でしなやかに通用するものになるためには、目の前の難しいという困難に向き合い、逃げ出したいという衝動と戦い、打ち勝っていくことだと思う。どこに身を置こうと、そのときの自分以上にはならない、なれない。分をわきまえ、相手ありきを考えることを習慣とする。やりがいや楽しさは、使命感を感じたときに自然に湧き上がるものだと思う。